皇紀弐阡八百六拾参年七月弐拾四日
五時弐拾起床。ヨガ。
ミラー《南回帰線》角川文庫・清水康雄訳
ようやく読了―此の間、執筆に忙殺されていたために、時間が掛ってしまった―此のブログ更新が捗らなかったのも、其のためである―今、調べてみると、読み出したのは参月壱拾五日だった―
此れで四人の訳者での《南回帰線》読破である―以前、特に違和感なく読めると書いたと思ふが、途中から印象が変ってきた―当り前だが、訳者によってニュアンスは異なる―いちいち、突き合わせて調べたりはしないが、何となく違いが判ってくる―此の角川版は《完訳》とある、初版が昭和四六年だから、恐らくは新潮社版の大久保訳に対する意味合いだろふ―他の訳者との比較はしていないが、読みながら所謂濡場における表現で、あゝ、此の箇所、この文言が其れまでは省かれていたのだろふ、と思い当る処が幾つかあった―
当り前だが、省略されるより、総て訳されたものを読んだ方が良いに決っている―譬えば、友人と水泳に行き、主人公(ミラー)は其の友人の妹とどうにか懇ろになりたいと、下心を見せるが、友人は其れを知って、妹を遠ざけようとする―其の日、友人と別れて帰宅する途中に、偶然にも其の妹に出会って、早速お愉しみになる―其のシーンが、恐らくは他の訳では一部、削除されているようだ―
《南回帰線》は読ませ処は多いが、個人的には此のシーンは特に好きである―此処は削除版では味わえない感興が出ている―
とは云ふものの、読み終っての感想は、必ずしも両手を挙げて満足とは云い難い―寧ろ、河野一郎訳、磯野訳の方を好む―何故か―訳文はかなり硬い印象で、処ゝ、平明、逆に云えば味がない―此れは現在の感想だが、本来、翻訳者は作家でなければならない、と勝手に思っている―訳文は唯、精確であればよいのではなく、其処には情緒、味わいがなくてはならない―だから、原語に堪能≒名訳とはならない、当り前の噺である―以前も取上げたが、吉行淳之介訳の短編を愛読しているのも、其のためである―但し、作家だから総ていい訳にならないのは、かのチャンドラーの翻訳で証明されてはいるのだが―
此の文庫本の解説を訳者が書いていて、此の作品はミラーの最高傑作であり、またミラーは二〇世紀最大の作家である、と賞賛している―五〇年以上前、未だミラーが存命中の評価であるから、其の分は割引いておく必要はあるだろふ―
昨年の秋以降、四度眼の《南回帰線》である―特に今回は時間が掛ったので、また印象深い―つい一週間ほど前には、読みながら、恐らく此れが最後の《南回帰線》になるだろふ、食指の動いていた水声社版のコレクションには、手を出さないだろふ―と云ふ気持ちになっていた。
一昨日から昨日、終盤の頁を捲りながら、眼の醒めるような箇所にぶつかって、ガラリと気持ちが変った、もっと読みたい、いや、読まなければ勿体無い、と―
以前も同じ感想を書いたはずである―ミラーの長編は砂場で宝石、砂漠でオアシスだ、と―今回も同じだった―《南回帰線》にはミラーの面白さが凝縮されている反面、ミラーのツマラナサが同時に横溢している―ミラーは《南回帰線》を三度、書き直したと、あとがきに書かれてある―だから、どうした―要は推敲とは篩に掛けることであって、無駄な文章、文言を削り取っていく作業である―ミラーもそうしたのだろふ―が、其の篩の眼が大き過ぎたのではあるまいか―イヤイヤ、玉石混交、魑魅魍魎、既製の約束事を破壊する処に、ミラーの真骨頂があるのだ、と云われれば、まあ、そうだね、と應えるしかない、後は好きか嫌いか、である―
料理で云ふなら、無国籍料理か―つまりごった煮―味は必ずしも洗練されている訳ではなく、非道く濃厚な味付けで、其れを次か次へと出されれば、食傷気味にもなろふ―もういいよ、と思っているのに、此れでもかと、出てくる皿の数ゝ―うんざりしていたら、ひょいと、気の利いたデザートが出されて、再び舌鼓を打つ―そんな趣だ―
其の勢いで、つい中央公論社版・谷口陸男訳の出だしを読んでみた―此方は実に自然な訳で、読みやすい―此れまでで一番ではあるまいか―此のまま、どっぷりとミラー・ワールドに浸るのもまた一興か―
本日も執筆出来たことに感謝
惟神霊幸倍坐世
最新作「ペイルブルーに染まって Ⅳ」