由紀かほる「憂国記」

日記もどき 最新作の情報等ゝ

古典に還れ― とは参拾年以上前、神保町にある祥伝社の某名物編集長からのアドヴァイスだった―以来、其の言葉を忘れたことはない―

 皇紀弐阡八百六拾参年八月弐拾七日

 五時半起床。ヨガ。

 ヘンリー・ミラー《クレイジー・コック》昨日読み終える―感想は出だしから最後までほぼ変ることはなかった―巻末にメアリー・V・ディアボーンと云ふ人が解説を書いている―此の作品が遅れて世に出た経緯等を彼是と―此の作品の中にも登場する、ミラーの二番目の奥方ジューンが、此の《クレイジー》の原稿を所有しており、其れをなかなか手放そうとしなかったそうだ―此のジューンはミラーと別れた後、再婚したが、上手く行かなかったらしい、やがて心身共に衰弱して病院に収容され、ミラーとも再会している―此の辺りの事情は、よく知らなかった―

 解説の後には、訳者のあとがきが続く―当然ながら、此の作品を手放しで賞賛している―また、此の作品が日本で出版される際の、かなりの裏事情まで書いているが、正直、此処で書くことではないだろふと思った―

 以下は批評ではなく、個人的感想である―作品の中身は、ミラーとジューン、そして其処へ迷い込んできたもう一人のおんなとの奇妙な三角関係の噺である―ミラーの作品を読んだ者なら、あゝ、あの噺か、とすぐに思い当たる有名な逸話の一つである―後の作品でも、其の様子は詳細に書かれてあって、其の意味では《クレイジー》は其の下地となる作品であり、其れ以上でも以下でもない―つまり、後の作品を読んだ者には不要な作品、とい云ふのが正直な感想である―

 同じ題材でも異なる視点から描いたのであれば、其れは其れで作品にする価値はあろう―が、此れはそうではない―

 ミラーの小説のほぼ総てが一人称で描かれ、其の主人公はほぼ実際のミラーと重なる―処が、《クレイジー》は三人称である―読んでいて不自然な、ぎこちない感じを抱くのは、ミラーが不得手なスタイルを選んでしまったことによるものであろう―後に一人称に終始したのは、其の事を当人も自覚したからに他なるまい―

《北回帰線》は公になった処女作で、続いて《南回帰線》が顕れた―既に此のブログでも何度も書いた通り、其の出来栄えからすれば、《南回帰線》に軍配を挙げよう―《南》に比べれば、《北》は文章も構成もかなり粗雑で、散漫で、未完成な印象が勁い―が、今回《クレイジー》を読むと、《北回帰線》もまた入念に書き込まれ、恐らくは何度となく書き直しを行った、濃密な作品である、と云ふ印象を享けるのだ―

 ミラーが晩年、此の《クレイジー》をどう評価していたか知らない―どうしても、出版したいと願っていたのかどうか、かなり怪しい―

 世にマニア、愛好家は数知れず、其の存在を否定するどころか、一時は自らもそうだったから、其の心境は判る―好きな作家、音楽家、アーティストのものなら、取り敢えず何でも手に入れたい、と願ふのがコレクターの心理である、其の出来不出来に拘らず―其れによって、其のアーティストの足跡を、独自に辿ることも出来よふし、新たな視点を見出すこともあろふ―

 が、多くはコレクター道における自己満足に終るのも、俟た実情だ―

 現在、此の日本でミラーの需要がどの程度なのか知らない―需要と其の価値、中身とは別ではある―今世紀に入って、ミラー・コレクションが出版されたのは、或る意味、驚きだったし、有難ひと思った―但し、すぐに絶版となったのが、現実でもある―

《クレイジー・コック》に関しては、此方としては特に有難いとは思わなかった―従って、再読はないだろふ―

 続いて、自炊本から偶ゝ手が伸びたのは《パンタグリュエル物語》―再読である―但し、今回は筑摩書房の世界文学全集の一冊《ラブレー》からである―お馴染みの渡辺一夫訳、正式には《ガルガンチュアとパンタグリュエル物語》―かつて読んだ際は文庫本だったと記憶しているが、果たして、全巻読み通したか、記憶にない、が、面白かったのは覚えている―

 出だしの《作者の序詞》で思わずニヤリとさせられる―其れだけではなく、ふと現在、執筆中断している《ドクトル・マノン》の続編への、新たなヒントが頭を過る―

 古典に還れ―

 とは参拾年以上前、神保町にある祥伝社の某名物編集長からのアドヴァイスだった―以来、其の言葉を忘れたことはない―

 本日も執筆出来たことに感謝

 惟神霊幸倍坐世

 最新作予約開始《朱い飛行船 レッド・ゼッペリン Ⅱ》