由紀かほる「憂国記」

日記もどき 最新作の情報等ゝ

プーチン大統領とタッカー・カールソンのインタビューが流れていたが、其の中で、プーチン大統領の口からドストエフスキーの名前が出て驚いた―

 皇紀弐阡八百六拾参年弐月弐拾日

 五時半起床。ヨガ。 

 自家製ボルシチと玄米朝食。

 コメントの返信に替えて―

ヘンリー・ミラー

 之から読むのであれば、お薦めは、

 吉行淳之介訳《愛と笑いの夜》

 此方は短篇集で、文庫本にもなっている―ハードカバーは、確か池田満寿夫が表紙のイラストを描いていたはずである―あとがきに吉行自身も書いている通り、短篇は他の有名な長篇とは趣がガラリと変って、読みやすい―詳細は其のあとがきに当って頂きたいが、何年に一回か読み直したくなる佳作揃いである―因みに新潮社版の全集にも同じ作品が収録されてあるが、訳としては矢張り吉行訳に軍配を挙げたい―

 そして、之に味をしめて、《北回帰線》に手を伸ばすと―之は之で、一筋縄では行かないのがミラーである―エッセイやら紀行文、評論等もそうだが、総ては所謂ミラー節で描かれ、其のあまりに饒舌な、あまりに執拗な反復される文章と、突如顕れる詩的な、シュールレアリスム風の表現に面食らい、途中で投げ出したくなるのであるが、思わぬ金言、箴言にぶつかって、ハッと眼を見開かされる―砂漠でオアシス、砂場でダイヤを掘出すような感じだろふか―其れも含めて愉しめるのであれば、長編にも挑戦して頂きたい―

◎鷗外―今、手軽にネットで入手出来るので有難ひのだが、残念ながら、多くは現代仮名遣ひになってしまっている―実は岩波の全集も途中から、旧漢字、旧仮名遣ひを辞めたのではなかったか―漱石はそうだった―読むなら、日本人である以上、正仮名遣ひのものにすべし―

 昨日、時代の変遷と共に、表現も古臭くなる―と書いたことと矛盾するように思われるだろふが、古典とは現代に翻訳されないからこそ古典なのだ―文學とか芸術とか云ふものは、其の上辺の表現で判断するのではなく、其の中身で判断するのは当たり前のことだからである―其の時代の人間の思考、喜怒哀楽、情感を味わふものだからだ―

 鷗外を読むなら、其の前に石川淳の《鷗外論》を一読しておくのもよいと思ふ(石川淳選集収録)―因みに岩波から出た新書判の《鷗外選集》は石川淳が監修している―さらに解説には小堀桂一郎氏が執筆しており、此方も参考になる―鷗外の到達点、つまり近代日本文學の到達点は後期の史伝三部作、中でも《伊澤蘭軒》とする説に賛成する―とは云え、いきなり之に手を出しても、撃沈するのは眼に見えている―其の辺りも含めて、石川淳の評論は参考になると思ふ―

ドストエフスキー―イチオシは米川正夫訳だが、入手が難しいのであれば、他の訳者でも特に問題はない―但し、一時亀山氏による新訳が持て囃されたものの、其の後、誤訳やら改竄等が指摘されており、此方は注意が必要―

 ドストエフスキーに限らず、露西亜文學が母国以外でもっとも数多く翻訳され、読まれているのが日本である―戦後、例の北方領土の件で、露西亜嫌いは根深いが、実は情緒面を含めて、感性の点で一番近しいのが露西亜人だと思ふ―少なくとも、欧米人よりも遥かに親近感が抱ける―残念ながら、戦後、日本人は美事に《彼ら》によって洗脳されてしまって、未だ其処から抜け出せずにいるのだが―

 つい先週、プーチン大統領とタッカー・カールソンのインタビューが流れていたが、其の中で、プーチン大統領の口からドストエフスキーの名前が出て驚いた―此処では之以上は踏み込まないが、いい加減、ソ連露西亜と云ふ固定観念から目覚めなければ、米帝と共に沈みゆくばかりだろふ―

 ざっと駈歩で紹介したが、何時も書いている通り、作品とは作者三割、読者七割の想像力によって成立するので、感じ方、好みは人夫ゝ―其れも含めて、お愉しみ下され―

 本日、矢張り氷点下となり、さらに吹雪いている―其の中を巫さんの処へ―

 本日も執筆出来たことに感謝

 惟神霊幸倍坐世

 

 最新作は此方から

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